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かんぽう武射 No.16 ◎平成11年3月15日発行

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加藤有次先生 記念講演
  21世紀の地域博物館 一その課題と夢一

■21世紀の地域博物館 一その課題と夢一
加藤有次先生 記念講演

 本日は芝山町立古墳・はにわ博物館の開館10周年記念、おめでとうございます。また、高いところから恐縮でございますが、本日の晴れがましいお席にお招きいただきまして、誠に有り難うございます。厚く御礼申し上げたいと思います。
 本日は、この21世紀にかけて博物館というものをどう考えたらよいかと、そういうお題を頂戴している訳でございます。

ヨーロッパの博物館の歴史
 ヨーロッパでは紀元前300年にギリシャがエジプトをギりシャ化しようという思想のもとにアレキサンドりア宮殿の一角に「ムゼイオン」というものを造ったというのが一番最初と言われており、この「ムゼイオン」が大学の始まりでもあり、学校の始まりでもございます。それと同時に博物館、図書館の始まりでもあり、公民館の始まりでもあり、非常に教育的・学術的な活動というものを致しまして、今日に考えますとまさに今日的な博物館の原点であったということが考えられます。しかしヨーロッパではローマの貴族社会が確立いたしますとAD4世紀にはこの考え方は滅亡してしまいます。
 その後ヨーロッパでは、中世を迎え教会美術館的なものが発展し、さらにルネッサンス15世紀以降からは急激に美術館、博物館というものが建てられていくようになってきました。
 19世紀初頭にはですね、3つの理念が確立しております。それは博物館が何といっても学術研究の殿堂であると。1807年にドクター・クリスチャン・トムゼンという考古学者がスウェーデンに考古学専門博物館を造り、この時に初代館長にトムゼンはなりました。これは要するに展示の仕方一つでもこういう風にしなけりゃいけないんだという一つの指針を出された訳ですね。で、それは何かと言いますと、もうその当時定着しておりました3時代区分説、つまり、石器時代、青銅器時代それから鉄器時代、展示室を全部そういう分類の仕方で展示をしていく訳ですね。ヨーロッパ人からしますとこれは意外なことで、考古学を知らない方々は非常に不満を抱かれた。要するにクリスチャン、キリスト教徒の人達は、神の子である。神の子は生まれながらにして別の文化を持っていた。石器文化っていうのは野蛮人なんだ、我々とは違うんだと。ですからそんな連中と一緒にされては困るということで、トムゼンは糾弾されることになるんですが、いずれにしてもこれはもう揺るがせない事実でございまして、今日でもスウェーデンの国立博物館にそれが継承発展されて、今なお石器時代、青銅器時代、鉄器時代という分類的な展示で学問の殿堂として確立されています。
 さらに、社会教育の場であるということが確立されました。社会教育の場であるということは、どういうことかと言いますとヨーロッパ社会ではルネッサンス以降、フランス革命、あるいは産業革命、一連の社会の流れの中で博物館は歩んで来ておるわけですから、19世紀に入るちょっと前だったですが、フランス国民会議がルーブル宮殿を無料で一般に公開すべきであると決議して、これが確立するわけです。1845年には、イギリスでは博物館令という法律を出し、博物館というのは公共機関としてそれぞれの自治体が公費で建設すべきであると、こういうことが確立されたわけです。従って、博物館は学術研究の場であると同時に社会教育の場であり、公共機関であると言う理念が19世紀初頭に確立したわけです。

日本の博物館の黎明
 我が国ではそうはいきませんでした。ただ共通しているのは中世以降、ヨーロッパと同じように神社仏閣の宝物殿、あるいは絵馬堂などができて、博物館的な動きはありました。しかし、ヨーロッパにみるような形態っていうようなものはないもんですから、鎖国を解こうといったときに、いち早く明治政府はアメリカ、あるいはヨーロッパの博物館の状態が気になったんですね。やはり、国を富ますのは博物館ではなかろうかということを感じたんですが、長い日本の歴史の中ではそれが理解されないんです。
 それはどういうことかと言いますと、日本の教育というものを考えてみますと長い江戸時代、寺小屋で読み書き算盤というひとつの教育方法がございまして、要するに机上で計算したり、字を書いたり、読んだりする、それだけできれば世の中いっぱしに生きていけると、それが大事なんだというのが日本の教育の姿勢ではなかったかと私は思うんです。
 ヨーロッパの場合は物の教育から入って行くんです。これは水を飲むのに適しているとか、飲み物を飲むのに適してる形とか、機能とかそういうような教育を重視してきております。日本の社会はそうじゃございませんで、そういうところに物質文化を媒体とした博物館というのが育つはずがないんですね。
 それでも明治の時代になりまして、どうにかそういう教育を考えなけりゃいけないのかなあということで、慶応3年にパリで開かれた万国博覧会に先ず行ってみようと言って、その中に福沢諭吉も行っておりました。福沢諭吉は博物館に非常に関心を持っていて、ひょっとしたら、『ミュージアム』という言葉を福澤諭吉が訳したんじゃないかという説もございます。田中芳男かもしれない、町田久成かもしれない。その田中芳男、町田久成というのは東京国立博物館の敷地の中に記念碑も建っておりますが、町田久成などは帰ってきて、政府に進言します。まず、古い物をヨーロッパ社会では大切にしている、ということですね。7代も8代も前のおじいちゃん、おばあちゃんが使った家財道具だっていうものを今の家庭の中で大切に宝物にしているんです。
 日本の社会ではどうかというと、家を直したとか、部屋を綺麗にリニューアルしたとか、そうするとおじいちゃん、おばあちゃんのタンスも汚くなったね、これでは部屋にあわなくなったからと粗大ゴミに出すわけです。粗大ゴミに出して、すぐ新しい物を買ってきて入れ替えていく。ヨーロッパの家庭ではそういうものが非常に少ないんですね。だからこそ文化財保護思想というものが育つんです。今日本の社会では文化財保護思想、あるいは自然保護思想というのが盛んに叫ばれている今日ですけれども、なかなかこれは育たないんですね。この辺が、社会が違うということです。ですが、その田中芳男、町田久成は、古い物を大切にするためには集古館の建設をして欲しい、そういったことを太政官に出すんですけれど、太政官はそっぽを向いてる。しかし、そういう進言が出たから何か返事をしなけりゃということで国民に知らしめすために、古い物っていうのはこういう物が大切なんだよと言わんばかりに31項目の分類項目を提示した太政官布告が出ております。この古い物っていうのはこういうもんだと国民に示しただけで、博物館っていうものは結局はできなかったわけですね。要するに古い物を解題しただけで国が興せるかという、こういう単純な日本人の発想というものがあるわけです。
 そこで今度は黒田清隆が北海道開拓次官に任命されます。さあ北海道のような土地っていうのを開拓するのにどうしたらいいんだろうか、黒田清隆はふと気がついて、アメリカはヨーロッパから移って開拓した土地だ。違った風土に行って開拓するのには何らかの方法があるだろう。アメリカに手紙を出して、誰か指導者を送ってくれと。その知らせを受け取った人間がホーレス・ケプロンなんです。このホーレス・ケプロンは大臣か何か大職についておられたんですけれども、よしわしが行くって言って、ケプロン自らが来ちゃったんです。日本へ来て開ロー番何て言ったか、「日本には博物館がない。博物館から造らなければ国が興せないんだよ。」そう言って北海道へ渡って、ケプロンはこの土地にもない、だから博物館を造りなさい。
 ちょうど内国勧業博覧会、あるいは各都市では、地方の博覧会が産業の振興のために発達しました。函館博覧会、金沢博覧会なんていうようなものができてきました。みんな博覧会というのはパビリオンで臨時的な施設ですが、ホーレス・ケプロンの言うことによっていつまでも博物館として残そうということで、金沢博物館なんていうのが兼六園の所にできた。だがそんなのはすぐに立ち消えになります。しかし北海道の札幌農学校の付属博物館、今日の北大農学部の植物園の中にあります付属博物館、とそれから函館市立博物館、こういう博物館はですね、あのケプロンの指導のもとに連綿として今日まで百有余年の歴史を築いているんです。
 だが日本全体、本土全体としてはそんなのはできたにしても立ち消えになってしまう。古い物を対象として国が興せるのか。こういうその日本の発想というものと、ヨーロッパの発想というものは非常に異なるんだなあということが、お解りになるだろうと思います。でも日本でもやることはやるんです。明治4年に博覧会が湯島の聖堂で行われまして、そして明治5年にお茶の水博物館が生まれ、その湯島の博物館が今日の東京国立博物館に成長したわけです。次いで産業を発展させるために国を興すのかじゃなく、国を興すために産業を発展させるんだと言うことで明治8年には東京博物館というのが上野の山に生まれます。また、義務教育制度ができ、その先生方を先ず指導しなけりゃいけない。特に理科教育を推進しようということで、先生方を全国から集めては、東京博物館で実験を教えながら指導していくわけです。その先生方が、地方へ帰ってまた子供達へ教えていく。教育的でございますから、後に東京教育博物館になります。
 だが明治22年には追い出されちゃう。岡倉覚三、岡倉天心に乗っ取られちゃったんです。でも、岡倉天心が悪いって言う訳じゃあないんですよ。岡倉天心は日本の文化財というものは大切だと、このまま行ったらみんなバタ臭い物をどんどんどんどん取り入れ、あの鹿鳴館の時代のように日本文化というものは立ち消えになっちゃう。これを救うためには技術を保護しなけりゃいかんということで、油絵が入ってくれば日本画を推進しなけりゃいけない、だから東京美術学校を造りたいという。それで空き家があるなら造れっていうことで、天心はもうわらじ掛けで東京中を歩いてまわり、最後、上野の山にさしかかって一服しているところに目の前に東京博物館があったわけです。「あっ、これはいいや」って言ったら政府は二つ返事で、そんな博物館もういらないよ。で、お茶の水へ移します。もうその時には国立博物館は上野へ行っちゃってますから、そういうことで東京高等師範学校の付属になり、さらに発展を致しまして今日の国立科学博物館が生まれたわけなんです。
 アメリカの場合はですね地方の博物館、地域博物館っていうのが非常に早くから設立されております。地域、地域に博物館を造っている。あのニューヨークの市立博物館なんていうのは、アメりカインディアンの資料が膨大にございます。開拓したときに先ず役場を造ったり学校造ったりっていうのが日本の社会ですけれども、先ず博物館から造る。その原住民の暮らしと生活、文化ですね、これを学ぶことによって、その土地が耕せる富んだ土地なんだ、こういうことなんです。そういうことで欧米においては博物館そのものに対する考え方っていいますか、そういうものが非常に日本の社会とは違ってきております。

地域学の提唱
 昭和40年前後、ぽつぽつと県立博物館が造られ始めてきたわけですね。私も秋田県立博物館設立に係わり、昭和50年に開館しましたが、知事は任期中、必ず毎月博物館へ来て、この展示はもう古くなったからここでちょっと替えた方がいいなあと、館長さんが言うべきことをどんどんどんどん自分で言って、予算出してるんですよ。ここが非常に大事なんですが、ただ一つ理念をやってくれなかったのが、秋田学をやろうということです。秋田の人達がみんな都会へ都会へと出てきて過疎化していく、だが秋田というのはこういう県土で、こういうところに色があり、味があり、形があり、そういう特色というものがこの博物館へ来て理解できるようにしていくためには、秋田学というものを樹立しなけりゃならない。これが地域学の提唱です。私が一番最初じゃなかったかと思いますが、最近私の地域学の論理を社会教育の方でだいぶ推進し始めて、論文を書く人が多くなってきました。非常に嬉しく思うんですがようやくですね、20数年経ってこの秋田学に目が向けられるようになりつつあります。
 ホーレス・ケプロンはそれをちゃんと据え付けていったために今日の現代的な理念、博物館の理念というものが北海道に芽生えて、百有余年経ってだんだんだんだんと南下して沖繩まで今ようやく到達しだということが言えるんです。
 名護市の博物館は町役場の人達が手作りで造ったような博物館ですから見ると汚いもんです。汚いんですが、私はすばらしい博物館の理念を踏襲しているなというふうに思っております。で、本来なら沖繩にももっと早く生まれるところだったんでしょうが、沖繩はああいう敗戦の打撃を受けておりますからなかなかそういうわけにはいかなかった。アメリカ進駐軍が沖繩に入ってきたときに、何か焼け残ったものを一生懸命アメリカ軍は集めて、キャンプの中に博物館を造っているんですよ。これが沖繩という所を兵隊が学ぶためなんですよ。そういうことをちゃんと司令官は指示しているんです。まさにアメリカの開拓理念ていうのはそこなんですね。その後キャンプの中にあったものをすべて、沖繩が復帰してから沖繩県に寄付されて今の沖繩県立博物館が形成されていく。こういうような日本の博物館の生い立ちっていうものがございます。

これからの博物館
 さあそこでね、ノーマルな博物館のパターンでこういう21世紀にかけての博物館というものを考えてみますと、私はこの地域学の確立ではなかろうか、ましてや生涯学習時代に入りました、文部省も改組されます。今までの文部省というのは学校教育一本の力の入れ方ですね。読み書き算盤であるからこそ、日本国民ほど活字の読める国民は他民族にはいないと思う、といっても過言じゃないんじゃなかろうかと私は思うんです。小学生が今日はどんなテレビ番組があるかなって、ちゃんとテレビ欄を読んでますからね。こういう国民です。これは素晴らしいことです。しかし、物質文化というものをないがしろにはできないんです。知恵の宝庫なんです。我々の日常生活で暮らしという、衣食住を通じた暮らしの知恵っていうのが、博物館にいっぱい詰まっているわけなんです。そういうことですから生涯学習時代というものは、大事だということがようやく分かってきた。この生涯学習時代に向けて博物館をセンター的な機能にしていこうじゃないかというのは、もうここでもってみんなのコンセンサスを得たわけです。
 さあこれからその地域における博物館をどうしたらいいかということなんですね。で、この場合に私は今、国際化の時代が到来すると考えております。国際化というのは、先ず英語がしゃべれなければいけない、とお思いになるかもしれませんが、そうじゃあないんです。語学は二の次なんです。要するに国際化時代というのは、子供達が身の回りをいかに理解するか、これが原点なんです。その身の回りをしっかりとふまえて、私たちの所はこういう所だよ、ということでふまえ込んで初めて国際社会に出て行けるわけです。いつぞや高校生と東京のライオンズクラブですがそこの高校生が毎年留学生を交換する。日本から10名の高校生を送るので、私に特訓してくれと言うんですね。日本文化の特訓というのをよくやりました。高校生は何にも分かってないんです。これでアメリカヘ行っていろんな質問を受けて話ができるのかな、ここなんですね。それでは国際化は確立しないんです。

郷土学と郷土博物館
 ヨーロッパの19世紀に確立した理念ていうのはそこなんです。そこで昨年ドイツをちょっと調べてみました。なぜかと言いますとドイツでは非常に早くからハイマートクンドという主張が出ております。これはどういうことかと言いますと要するに郷士学なんです。
 ドイツでは小さな村々がいっぱいある。それで村々が一つの塊になって、ローカルになっている。ローカルがまた繋がって総括的な国家というものが形成される。そうすると一番小さい自治体の単位でその地域の特質を究明しようと。ですから、考古、歴史、民俗、動物、鉱物、植物、美術、こういう様々なものを学問分野からその地域社会というものを追求していく。そうすると、わが村はこんなところに特徴があるんだな、隣の村とはここが違うんだ、というその違いが初めて分かってくる。すると村に誇りを持つ。そういう村々がみんな競ってプライドを持っていくことになってくる。
 うち(國學院大學)の教育学の村田教授が昔ドイツヘ行って来た。「先生どうでしたか。」「いや、ある町へ行ったらあまり人もいなかった。駅から降りてとぼとぼと用事を足しに目的の所まで行って帰ってきたら老婆とすれ違った。」って言うんですね。老婆とすれ違ったら、会釈をして通り過ぎたんだけれども、お婆ちゃんがふっと振り向いて、「お見かけするところ外国人のようですが、この道はそんなに通ったことないでしょう。あそこの家見てきましたか。」突然言われて、「いえいえ」って言ったら、それじゃあぜひ見ていきなさいって言って、引っ張って行かれて見せられた。ゲーテの生まれた家だと。その村人にとっては一つの誇りなんですよ。だからここに来たらこれを見ていくんだよ、ということなんですね。ハイマートクンドというのはそこなんです。いろんな学問分野で追求していくという、だがドイツでは非常に残念なことには、これが崩れていくんです。ヒトラーによってあのナチズムを生み出しています。こういうふうにして作り上げてきたものをうまく利用されたわけなんです。だがこの発想論というものは非常に地域学として大事なことなんだと私は思います。

これからの芝山の博物館
 この芝山町の古墳・はにわ博物館というネーミングは、これはこれでタイトルとしていいんです。だがこれからはますますこの芝山町の考古、歴史、民俗、動物、鉱物、植物といったようなこの芝山のオリジナルっていうものを生産していっていただきたいなと考えています。地域における博物館というものは、その地域の住民が自然的風土を培って、暮らしという歴史的風土を築き上げてきた。自分の家庭を過去から現在まで学んで、そして我が町はこうだっていうことで、じゃあこういう町にしなければいけないっていう発想をすることがこの郷土博物館の大きな使命なんだと、生涯学習時代に向けての大きな使命というのが存在するんだというふうに私は思います。
 この芝山町は開館してもう10年も経っているということでございますが、最近では10年経ちますと自治体はリニューアルをしようということで改革をしていくと思います。私は極端に言えば、どんな不景気な時代であっても他の予算を削減しても博物館につぎ込むべきだと思います。それはですね、開館して10年たった、それでは開館までの費用まではいかなくても、その7〜8割位、何億になるか分かりませんが、ボンと博物館に注いで地域住民の明日のために運営をしていかなければいけないんじゃなかろうかな、こういうふうに私は思います。
 博物館の予算というのは一番早く削られます。人員削減も一番早い。これでは文化はできません。あのルネッサンス以降、イタリアに始まり、あのロレンツォ・デ・メディチあたりが文化はこういうことだと、文化財を集めて若い少壮芸術家を育てていった。それがあのイタリアのフローレンスを芸術の都とならしめたんです。この思想がドイツヘ飛び、フランスヘ飛び、ヨーロッパ全土に、政治というものは先ず文化からだということ、こういう認識がヨーロッパの風土にはあるんです。日本の社会ではありません。これは政治家が何を考えておられるかと、この中に議員さんもいらっしゃって、あまり言えないんですけれども、ここが大きな問題ではなかろうかなと私は思うんですよ。日本の社会で先ずですね、議員さんが議会で質問なさったり、私はこの期間に議会に出てこれだけの業績を上げたっていう。下水道をあそこに使ったとか、道路を造ったとか大体ハード面で終わるんですよ。ハード面はいつでもできるんです。金さえ出せば道路も下水もできるんです。しかし地域住民の精神的な心の文化というものは、50年、100年かかるんです。従って開館当初の予算を、もう一度この博物館に投じなさいということです。50年後100年後の芝山町民のため、がらっと変わるはずです。
 芝山の方々が東京へ向かないで、芝山のこの風土の中でこの町をどうしたらいいかという気持ちを若い人々に起こさせることが、本当のこれからの文化行政なんですね。そういう意味でこの博物館というものをどうかご活用していただいて、日本一のこの芝山町の博物館ということを誇って、また誇ることができるような働きを皆様方にしていただきたいことをお願い申し上げまして、時間が参りましたので終了させていただきます。ご静聴有り難うございました。

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