印波国(いんばのくに)の古墳

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 千葉県の北部、今の利根川下流域は、古代には香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった。
 銚子から太平洋に流れる今の利根川は、東京湾に流れ込んでいたもの(今の江戸川)を江戸に幕府が開かれた時から長い年月をかけて、川を付け替えた瀬替えによるものである。手賀沼も印旛沼も霞ヶ浦も古墳時代は海であった。常陸の国と境がこの流海によって画されていた。
 この内海沿いの下総台地上には多くの古墳が長い期間、連続して築造された。
 手賀沼に面した北岸の台地上には、日立精機古墳群、根戸船戸古墳群、子の神古墳群、高野山古墳群、香取神社古墳群、水神山古墳など前方後円墳7基を含む100基近くの古墳が築造されている(これらを総称して我孫子古墳群と呼ぶこともある)。
 これらの古墳群は、5世紀後半から7世紀に築造されたもので、武器、武具などの副葬品が多く出土し、被葬者の武人的性格が表されている古墳が多いのが、この地域の特色である。
 利根川流域には埴輪を出土する古墳も多い。我孫子古墳群出土の埴輪は、下総型埴輪と呼ばれ、製作年代や技法の変遷をよく示す資料として早くから研究が進んでいる。
 また、手賀沼南岸の沼南町片山地区には、オッコシ古墳群、片山古墳群、北ノ作古墳群などがあり、特に北ノ作古墳群はこの地域最古の前期の古墳として注目されている。
 印旛沼は、干拓が進み、もとの半分以下になったが、今も県内最大の湖沼であり、その周りには古くから人々が生活していた多くの痕跡が認められる。
 特に北東岸の栄町から成田市の一部におよぶ範囲には、千葉県を代表する大古墳群である龍角寺古墳群や上福田古墳群がある。その大部分は房総風土記の丘の古墳公園として保存されている。
 古墳時代終末期(7世紀前半)に築造された岩屋古墳、みそ岩屋古墳など全国を代表する大型方墳と横穴式石室に使われている貝化石を含む軟砂岩の石材などはこの地域の特徴といえる。また、埴輪列の復元された龍角寺101号墳は、印旛沼をのぞむ古墳の立地と古代の雰囲気を想像するのに最適である。
 印旛沼東岸には、現在の成田ニュータウン内を中心として公津ヶ原古墳群(八代台、瓢塚、天王・船塚古墳群の総称)があったが、多くは宅地造成に伴って調査され、今は公園や学校用地内でみることができる。
 印旛沼南岸の佐倉市の鹿島川流域には、佐倉第三工業団地造成に伴って調査された岩富古墳群と、やや上流に飯塚古墳群があり、その下流域の印旛沼を見下ろす台地上には市内最大の山崎ひょうたん塚古墳がある。
 手繰川流域には、古墳出現前夜の方形周溝墓と周溝を共有した古墳時代前期の前方後方墳、方墳が調査され、弥生時代の墓制である方形周溝墓から古墳への移り変わりをよく示してくれる飯郷作古墳群がある。
 『国造本紀』によると応神天皇の世に、伊都許利命を初代の国造に定めたとあり、今の印旛郡、東葛地区北部周辺を支配していたと思われる。
 いずれにしても、印波国では古墳時代前期から終末期までの全時期を通じた国造につながる首長層の古墳を造り続けた地域がないのが特徴といえる。
 手賀沼、印旛沼周辺をその時々の有力豪族達が連合と同盟を繰り返し、この一帯を実行支配していたのであろう。

 


高野山1号墳出土埴輪


龍角寺101号墳
楯を持つ武人


古代の地形


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