市川市・松戸市の古墳(江戸川流域の古墳)

 下総国府・国分寺、そして真間手児奈が古代を彩るこの地域にあって、数少ない古墳を歩く。1,500年の間、時代の波にさらされながら先人たちが守り続けた都市空間に残された豊かな歴史を、心で巡るロマン溢れるコース。

●コース

*交通の便利な都市型コースだから車の方が不便でしょう。好みにあった気軽な歩き方を楽しみましょう。

今でも暴れ川として知られている渡良瀬川の出口であった江戸川(古代の太日川)を治め、千葉の国を支配した豪族の故地に、わずかに残った国府台古墳群がある。
天平時代開基といわれる寺境内にある弘法寺古墳(6世紀後半)、文明11年(1479)太田道罐築城と伝えられる国府台城の中にある明戸古墳(6世紀末か)、埴輪が発見された法皇塚古墳(6世紀中頃)、そして松戸市南部には4基の古墳群のうち今に残る河原塚4号墳(7世紀代)。奈良時代には国府や国分尼寺が置かれ、下総国の中心となるこの地域は、悠久の原始、古代の歴史を垣間見ることができる。

荒久古墳

 京成電鉄国府台駅北口を出て、線路沿いに400m千葉寄りに進み、一方通行のマークが見えたら左折して郵便局を目指す。真間川に架かる入江橋を渡る。水の流れていない継ぎ橋の20m先を神社に向かって右折すると、間もなく手児奈伝説の霊堂に到着。参拝したのち、道を挟んだ北側の亀井院裏の真間の井戸を見学する。霊堂に戻り右に100mほど継ぎ橋道に戻って右折すると、目の前に弘法寺の仁王門が見える。門前の階段を横目に坂道を左に上る。上りきると眼前に小山が見えてくる。これが、弘法寺古墳。全長43mの前方後円墳だが、南斜面は大きく崩落して形は分からない。
 弘法寺は、門を直進して本堂へ。その裏に真間山古墳といわれる塚が残る。(P. なし)

弘法寺古墳 前方後円墳◆所在地 市川市真間4-360(弘法寺境内遍覧亭西側)◆全長43m◆方位 N-65゜-W◆前方部幅15m 高さ3m◆後円部径8(20)m 高さ3m◆埋葬施設 不明◆出土品 不明◆備考 台地の南はしにあり、がけ崩れでなかば崩壊している。遠くから見るだけ。
真間山古墳 円墳◆所在地 市川市真間4-360(弘法寺境内祖先堂東側)◆直径約20m 現高2.5m◆備考 古墳かどうかも不明、未調査。前の二葉楓の碑は、船形石棺を再利用したとも考えられる。




弘法寺古墳


真間山弘法寺

真間手児奈伝説

 この地に住んでいた貧しい美少女は、言い寄る男たちに戸惑い、心を痛め、ついには入り江に入水したという。
「葛飾の真間の入江に打ちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ」山部赤人・この入り江付近には砂州が列を成し、これらを結んでいたのが継ぎ橋だという。
「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継ぎ橋止まず通はむ」万葉東歌・手児奈が毎日、はだしで水汲みをしたといわれる井戸が瓶井坊(現亀井院)にある。
「勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」高橋虫麻呂
「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥つき処」山部赤人

●寄り道●


真間のつぎ橋


手児奈霊堂

弘法寺…天平9年(737)手児奈の霊を慰めようと、行基が一宇を建立して救法寺とした。後に弘法大師が伽藍を編んで弘法寺と改め、真言宗から天台宗・日蓮宗へと変遷して今に至る。

手児奈霊堂…文亀元年(1501)弘法寺の日与上人が、彼女の墓跡に建立。真間の継橋は、真間の入り江に橋脚の杭を打って、幾枚かの板をつなぎ合わせ、渡したものであろう。

真間の井…高橋虫麻呂が詠んだ真間の井は、亀井院の裏庭にある井戸がそれと伝えられている。亀井院ははじめ瓶井坊と呼ばれているところからみて、真間の井は、水瓶を地中に入れたような形をしたところから、清水が湧き出していたものと思われる。亀井院には大正5年5月から6月にかけて、北原白秋が住んでいたことがある。

法皇塚古墳

 弘法寺庫裏まで戻り、左側の建物の道を抜けて、県道に架かる歩道橋を渡る。そのまま松戸方面に向い和洋女子大正門をすぎてしばらく行くと、左側に東京医科歯科大の門がある。目指す古墳は、この校内にある。
 法皇塚古墳は、全長54.5mで北北西に向いた前方後円墳。別名、「鳳凰塚」。北東400mにある総寧寺に由来するらしい。


法皇塚古墳

 


memo

周りを柵で囲まれ、うっそうとした林になっていて、古墳の形ははっきりしない。大学の構内にお邪魔することになるので、遠慮がちに。


法皇塚古墳 前方後円墳 6世紀後半◆所在地 市川市国府台2-1-31東京医科歯科大学内◆全長54.5m◆方位 N-49゜-W◆前方部幅35m  高さ5.6m◆後円部径27m 高さ5.7m◆埋葬施設 横穴式石室(後円部西側)片袖 全長7.55m 玄室長4.35m 玄室幅1.6〜1.8m 羨道長3.2m 羨道幅1.2m 墳丘主軸と直交、凝灰質砂岩◆出土品 大刀3、刀子9、鉄鏃90以上、弓の飾金具9、衝角付胄1、挂甲1、鏡板付轡2、鞍金具1、鐙1、雲珠3、半球形飾金具67、玉類321以上、金銅製中空丸玉2、銀製中空丸玉4、金環1、銅釧2、埴輪(円筒、人物、馬、家)◆備考 1969年調査(小林三郎他)


明戸古墳

 東京医科歯科大学の裏門に出て、左折して住宅街を300m行くと、里見公園の入口。花壇や噴水を眺めながら遊園路を250m北に進むと小池があり、その傍らに古墳がある。
 明戸古墳は、全長40mの前方後円墳であるが、城の土塁として利用されたため、形はあまりはっきりしない。(公園内、売店にP. WC. あり)


明戸古墳

memo

 ここで、公園に隣接する総寧寺をお参りし、来た道を戻るのが半日コース。さらに、市川3万年の歴史を知りたい方は考古博物館・歴史博物館へ足を伸ばすとよい。

 

明戸古墳 前方後円墳 6世紀後半◆所在地 市川市国府台3-67-5(里見公園北門付近)◆全長約40m◆方位 N-38゜-W◆前方部幅28m 高さ5m◆後円部径21m 高さ5m◆埋葬施設 箱式石棺2(後円部墳頂)、凝灰岩製 石棺1規模 内法長2.3m 高さ0.6m 幅0.8m 石棺2規模 内法長1.8m 高さ0.7m 幅0.65m◆出土品 不明(天保元年(1830年)発行の江戸名所図会には、2つの石櫃の中より甲胄、大刀、金銀の鈴、陣太鼓、土偶人(人物埴輪?)出土とあるが所在不明)埴輪(円筒、器財・楯形)◆備考 1962年市史跡指定、1981年測量調査(市川考古学博物館)


明戸古墳石棺

寄り道

●里見公園 天文6年(1537)北条氏康と足利義明が、また永禄7年(1564)氏康と里見・太田の連合軍が……二度にわたる合戦が行われた古戦場。いずれにも勝利した北条氏が築いたと思われる土塁が残る。現在は遊歩道が整備され、市民の憩いの場となっている。また曹洞宗安国山総寧寺が隣接してある。

 

 

 

 

モデルコース

●総寧寺→じゅん菜池→市立市川歴史博物館→市立市川考古博物館
 時間に余裕のある方は次のルートで市川市の原始から今を探訪しよう。
 総寧寺の裏の里見荘を右折して県道市川松戸線に戻る。200m北上して国府台5丁目歩道橋を渡って、回り込むようにゴルフ練習場方向へ東に向かう。300mでじゅん菜池。一休みして東岸の階段を上り、大通りを50m南下し、左折して住宅街を700m直進し、住金鉱山わきの道を抜け、坂を下ると果樹園が見える。北西に広がる台地が目指す堀之内貝塚で、この台地の裾を回り、右折200m、突き当たりを左折すればすぐ市立市川歴史博物館、坂の上に考古博物館がある。


総寧寺


じゅん菜池

 

寄り道

●里見公園 天文6年(1537)北条氏康と足利義明が、また永禄7年(1564)氏康と里見・太田の連合軍が……二度にわたる合戦が行われた古戦場。いずれにも勝利した北条氏が築いたと思われる土塁が残る。現在は遊歩道が整備され、市民の憩いの場となっている。また曹洞宗安国山総寧寺が隣接してある。
●市立市川考古博物館 堀之内貝塚出土品を始め、考古資料を中心に、原始から国家誕生までを時代別に展示。法皇塚古墳出土の遺物を展示。047−373−2202、月曜休館、無料。


市立市川考古博物館

●市立市川歴史博物館 中世以降の海辺や台地の生活、水路と陸路などに働く人々に焦点を当てた展示。047−373−6351、月曜休館、無料。


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