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かんぽう武射 No.15 ◎平成9年3月25日発行

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古墳文化と芝山 一4一

■古墳文化と芝山 一4一
渋谷興平(本館館外研究員)

房総における前方後円墳の終焉
 平成7年2月のこと、奈良県桜井市に所在する箸墓(はしはか)古墳(全長275m)の兆域の北側一部分に小さな試掘坑を設ける機会があり、県立橿原考古学研究所によって、ついに学術調査のメスが入った。とても画期的な出来事である。同古墳の存在は、全国最古の巨大前方後円墳であろうと推定されていながらも「皇室の祖先の墓」として宮内庁が管理されている経緯があり、その現状からやむなく概観の観察に留まる研究姿勢が続いていた。先の待望する調査の結果、3世紀後葉から末期(布留0式)頃と推定される甕(かめ)や壺が発見される成果があり、箸墓古墳の実年代を知る上での貴重な手掛かりが得られることになった。
 ところで、箸墓古墳に代表される定型化された前方後円墳の営みは、4世紀から6世紀にわたって、その内容や存在形態を変えながら各地で普及することになる。久しく続いていた「前方後円墳の時代」も、6世紀後半代に至るとその思潮が崩れることになり、全国的な展開で停止される現象となっている。その様子は関東地方でも例外無くうかがえるようで、前方後円墳の最終段階に至る営みと想定される群馬県高崎市の八幡観音塚古墳(全長105m)や埼玉県行田市埼玉将軍塚古墳(全長102m)も、上述と同じ時期に停止しているようである。
 ここ房総地方では、果たしてどのような経過であろうか。西上総富津市の三条塚古墳(全長122m)や木更津市の金鈴塚古墳(全長95m)、東上総山武郡内の不動塚古墳(全長63m)や大堤権現塚古墳(全長117m)などが、当地で代表的な最終段階の前方後円墳で、いずれも6世紀後半から末葉の頃に営まれたと推定されている。かかる事情からも明らかなように、房総地方でもその終焉(しゅうえん)については、全国的な傾向に確りと追随している模様である。
 何故、前方後円墳が消滅してしまうのであろうか…、その背景が気に掛かる。いろいろ推測される中で、次のように思うのである。旧来から続く支配者層の同盟のシンボルであった前方後円墳の役割が終わりを告げたようで、畿内王朝では新たな中央集権化への強力な改革が模索され始めたからではなかろうか…。

横穴墓の営みと房総
 山腹あるいは丘陵の傾斜面に横穴の墓室を穿(うが)ち、沢山の群在を示して営まれる横穴墓の存在をご存じでしょうか。通称「百穴」などと呼ばれて各地で親しまれており、その中でも埼玉県比企郡吉見町の「黒岩横穴群」の存在はよく知られている。日本考古学の黎明が、明治10年のエドワード・モース先生指導による大森貝塚の発掘調査に創始している。その翌年、早くも日本人によって踏査されたのが黒岩横穴遺跡である。今日では「埋葬施設」ということが常識になっているが、当時としては大きな謎の存在で、著名な学者である坪井正五郎氏と白井光太郎氏の両博士らによって「穴居・葬穴」の賛否両論が、熱く論じられる舞台になったところで、考古学の学史的な面からも忘れることの出来ない場所である。

(つづく)


県内横穴分布図
千葉県文化財センター『房総考古学ライブラリー6古墳時代(2)』P375より

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