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かんぽう武射 No.11 ◎平成7年9月10日発行

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古墳文化と芝山 一1一

■古墳文化と芝山 一1一
渋谷興平(本館館外研究員)

◇女王卑弥呼と高塚古墳の営み◇
 古代中国の「晋王朝」時代に編さんが完成した『三国志』は、魏・呉・蜀三国の歴史がつづられていると共に、西暦2・3世紀頃の東アジア隣国の様子も概観されている。同書の「魏志本紀」では倭国(日本)に関する記述が載っている。当時の我が国にとっては、未だ文字による正式な記録を遺すことが適わない時であり、このことからも古代の倭国を知るうえで大変貴重な文献となっている。その「東夷伝」倭人条に載る二千字の内容からは、30の国を統卒する邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が活躍していたことがうかがえる。近年、大環濠集落が発見されたとして話題を集めた佐賀県吉野ケ里遺跡も、卑弥呼の時代に営まれていたと推定される。そして、文献や考古学研究の成果によると、倭国内は各地に台頭した地域集団の間で、勢力誇示(戦い)が激しく交わされる大乱の様子であったらしい。
 さて、魏の明王より「親魏倭王」の称号と金印紫綬を授かった卑弥呼が、死亡したのは248年頃である。この時、亡き女王のために「大きな冢(ちょう)(高く盛りあがった墓)を作り、その径が百余歩、奴婢(ぬひ)百余人を殉葬にした」そうである。墓の大きさを魏の尺度(一歩が140cm余)に当てはめてみると、全長約140mの堂々たる古墳の存在が浮かび、この記述をもって古墳時代の始まりとする意見もうかがえる。

◇大型前方後円墳の営み◇
 ところで、3世紀後半を迎えると奈良県桜井市において国内最初の巨大古墳であり、なおかつ最初の巨大前方後円墳でもある箸墓古墳(全長275m)が営まれる。同古墳の存在はかかる事情より、女王卑弥呼の統治する地が畿内地方に在ったのでなかろうかと主張される説にとっての強いよりどころとなっている。
 全国にはおおよそ20万基の古墳が営まれているといわれている。そのなかで、全長200m級以上を測る巨大古墳は42基を数える。いずれも前方後円墳で、その頂点が全長480mの規模を測る仁徳天皇陵(大仙陵古墳)である。また、巨大吉墳の営み分布を見ると、九州及び中国地方では認められず、偏に関西地方に集中しており、東日本方面では群馬県太田市に所在する太田天神山古墳(210m)が唯一の存在となっている。
 ここで、千葉県の大型古墳に注目してみよう。県内には、約8,665基の古墳が確認されている。そのなかで前方後円墳は644基を数え、全長が100mを超える大型古墳になると15基の存在を数える。そして、この千葉県下で最大規模を誇る古墳は、全長147mを測る内裏塚古墳(富津市)で、5世紀前半頃に営まれたと推定されている。因みに、全長117mを測る山武郡松尾町の大堤権現塚古墳(7世紀初頭)は、上位より7番目に位置している。

◇房総の古墳と地域首長の台頭◇
 大和政権の東進が図られる4世紀後半代に至ると、この房総では木更津市の手古塚古墳・長南町の能満寺古墳・下総町の大日山古墳など、全長が60〜80mを測る前方後円墳が営まれ、被葬者の副葬品などから、中央政権とのつながりの強い首長クラスの存在が想像される。5世紀代に入ると全長80m級の大型古墳が各地で営まれ、有力な首長の台頭となっている。そして、大型古墳を営んだ首長達は6〜7世紀に至り、新たな国造(こくぞう)体制下に組み込まれている。
 古墳時代の日本列島は130の国に分割されていたらしい。それぞれの国を治める代表者として国造が権力の頂点に立っている。これが国造制で中央集権体制化への動きである。房総では11の国が認められる。上総地方に限って見ると、伊甚・須恵・馬来田・上海上・菊麻・武社の6つの国が置かれている。

(つづく)

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